2005 年12 月28 日
幸せについて本気出しては無いけれど考えてみた
他人の幸せを願う事はとても難しい事だと思う。勿論、それはよく考えてみると自己満足であったり、周囲が思っている程綺麗な物じゃなかったりする。それでも、他人の幸せを願えるだけで、それは何らかの難関を突破している事になる。「他人を幸せにする為には、まず自分が幸せになる必要がある」。そういった文をどこかのウェブサイトで見つけ、なるほど賛同した。自分の利益を先に追求するのが人間として当然の判断だ。自分よりも他人の幸せを先に願う、なんて理想を言っても私には到底納得できない。
では、どれくらい自分が幸せになる必要があるのだろうか。ここからが今回私の言いたかった言わばメインの部分だ。
自分が幸せか不幸せか、それを判断するのは自分だ。ただ、その判断の結果は周囲に依るものが非常に多いだろう。いくら自分に良い事があろうと、周囲にそれよりもずっと良い事が多く起こった場合、自分のその良い事は小さな物になる。逆に、周囲に不幸な人ばかりが居ると、自分は多少幸せを感じてしまう。他人の不幸は蜜、という諺はこれが理由だと思っている。相対的な地位の上下。
だが、周囲に影響されない強い意志を持っている場合、話は別だ。他人からすればどんなに小さな喜びでも、心から本当に喜べる人ならば、その人の人生はとても幸せなものになると思う。この強い意志、というのは一種の合理化の様に思えるが、それでも本人が納得できれば人生は明るいものになるだろう。
さて、本人がそれだけ幸せを感じる事ができた場合、それで他人の幸せを願う準備が漸く整った事になる。他人の幸せを願う事ができる状態=自分が幸せである状態、という事だ。
今までの話の流れを考えると他人の幸せを願う事が自分の幸せになる、というのは強ち間違っていない。他人の幸せを願おうとする場合、必然的に自分が幸せになっていなければならないからだ。そこで自分はある程度妥協し、幸せになるんじゃないだろうか。何とも後味の悪そうな幸せではあるけれども。
投稿者:未定at 12 :16| 戯言 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )